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おじいさんのランプ [ためになるお話]

新美南吉(にいみなんきち、1913-43)をご存知でしょうか。教科書にも載っている『ごんぎつね』や『てぶくろを買いに』で知られる童話作家です。先日の子どもべやで、彼の代表作の一つ『おじいさんのランプ』から、一節を紹介しました。

ojiisan-no-lamp.jpg『おじいさんのランプ』は、中部地方のある村で、明かりが行燈(あんどん)→ランプ→電気へと移り変わっていく頃の話。孫の東一がぐうぜん納屋から引っ張り出してきた古いランプを前に、本屋のご隠居さんがある昔話を語って聞かせます。

田舎の村で育ち、薄暗い行燈の光しか知らなかった巳之助少年が、初めて町へ出た日、夜でも昼のように明るいランプの光に驚嘆し、ランプ屋として身を立て成功する。彼は身寄りがなく貧しかったので、ろくに学校にも行けなかったが、ランプのおかげで夜でも勉強できるようになり、大人になってから読み書きも学んだ。しかし、時とともに、より明るく便利な電気の時代がやってきた。巳之助は、負け惜しみから電燈をさんざんけなしてみたけれども、どうやってもランプは電気に抗えないと悟ったある日、50個ほどもあった手持ち在庫に火を灯し、池のほとりの木に残らずぶら下げると、泣きながら一つ、また一つと石を投げつけて壊していった・・・

そうして唯一、巳之助じいさんの手元に残ったのが、東一の見つけたランプでした。おじいさんは言います。

「わしのやりかたはすこしばかりばかだったが、わしのしょうばいのやめかたは、じぶんでいうのもなんだが、なかなかりっぱだったと思うよ。わしのいいたいのはこうさ、日本が進んで、じぶんの古いしょうばいがお役にたたなくなったら、すっぱりそいつをすてるのだ。・・・じぶんのしょうばいがはやっていたむかしの方がよかったといったり、世の中の進んだことをうらいたり、そんな意気地のねえことはけっしてしないということだ。」

次々に新しいものが出てきて、生活が激変する文明開化の時代、人々は長く慣れ親しんだものと、ある時は積極的に、ある時は惜しみながら決別し、新しいやり方を採用していきました。行燈を捨て喜々としてランプを取り入れた巳之助も、電気の時代の到来をスンナリ受け入れることはできませんでした。

新美南吉初の、(そして生前唯一の)童話集『おぢいさんのランプ』が出版されたのは1942年、第2次大戦のさ中です。そして、巳之助じいさんの体験は、日露戦争の時分(1900年代初頭)という設定。時代背景を反映してか、物語には日本男児の心意気といったような言葉も目につきますが、一つの何かを捨て、別の何かを取るとき、人が感じる心の痛みや葛藤は、時を超えて普遍的なものでしょう。生まれた時からモノは何でもある今の子どもたちに、100年ほど前の日本の風景や人々のくらしと併せて、インパクトを与えた模様。後戻りできないであろう変化の波に直面したとき、自分はどんな決断と選択をするのか―そんなことを考えるきっかけになればと思います。

2011.1.21 子どもべや伏尾台教室にて

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